ヘルシンキの過去に関する13の物語 / Thirteen stories from Helsinki’s past

1. 「ヘルシンキ」という名前はスウェーデンにルーツがあります。ヘルシンキはHelsingforsという、helsingeという地名とforsという滝という意味の言葉に由来します。後者は、いくつかの滝から流れてきた川の周りにある、数多くの断崖という事から来ています。そのように、ヘルシンキは若く、オスロやストックホルムといった近隣の都市と比べると、とても若い街です。ヘルシンキは、1550年にヴァンター川の小さな滝の近くに築かれました。

Gusta Vasa

2.   ヘルシンキは、Gustav Vasa(グスタフ1世)というスウェーデンの国王によって築かれました。彼に関して、学生の頃に短剣でバイブルに穴をあけ、デンマーク語のチューターに対して、「先生も学校もくそくらえ!」と叫んだという逸話が残っています。スウェーデンのUppland博物館に、その時シーンを描いたタペストリーがあります。17世紀には、この王朝の名が付けられた船が造られました。当時その船は、最も高価で華やかな物でしたが、重大な設計上の問題を抱えたまま建設されました。船は、全く初めてのストックホルム港からの船出で沈んでしまいました。そして、船が海底から引き上げられたのは沈没から333年後の事でした。現在は博物館で展示されています。 

3.  18世紀にはヘルシンキは、スウェーデン対ロシアの戦いの場になりました。破壊的な北方大戦争の間に最低でも4回、街は燃やされ、包囲され、飢饉にさらされました。1809年に、フィンランド大公国はロシアの一部となりました。

4.  その後、フィンランド大公国の首都をどこにすべきかという議論が起こりました。長期間に及ぶ、話し合い・投票・手紙のやり取りやロシア皇帝に対する嘆願を経て、3年後の1812年6月12日に小さなヘルシンキという街が大公国の首都となりました。立地条件の良さにより、ヘルシンキはトゥルクに勝りました(それまでの首都であったトゥルクは、ストックホルムに近すぎたのでした)。歴史家達はまた、ヘルシンキの人々がロシア皇帝に宛てた手紙の中の、ずる賢くも気品の高い言い回しを特筆しています。

Karl ludvig Engel

5.  街の物語の一つは、ベルリン出身の建築家であるCarl Ludwig Engelに関係しています。彼の卒業証書は、彼の洗練された製図のデザインを示しています。そして彼こそが、私達を今現在魅了しているヘルシンキの創造に加わった人物なのです。街の物語の一つは、ベルリン出身の建築家であるCarl Ludwig Engelに関係しています。彼の卒業証書は、彼の洗練された製図のデザインを示しています。そして彼こそが、私達を今現在魅了しているヘルシンキの創造に加わった人物なのです。ヘルシンキが首都となった時、街はまた数ブロックしかない非常に小さい村落であり、街を変化させる事が急務でした。そしてEhrenström州の相談役が、街の再建と言うタスクを対処出来うる建築物の調査を、容赦なく始めました。相談役とエンゲルの会合の後、相談役は手紙でエンゲルにヘルシンキの主要建築家のポジションを提案し、幸運にもエンゲルはそれを受け入れたのでした。

Senate square1 6.  19世紀には、およそ30建物と建築プロジェクトがヘルシンキで実現され、街はエンパイア建築の最高の例となりました。しかし、これにはいくつかの秘密があったのでした。19世紀には、およそ30建物と建築プロジェクトがヘルシンキで実現され、街はエンパイア建築の最高の例となりました。しかし、これにはいくつかの秘密があったのでした。エンゲルの最も有名な作品は、ヘルシンキの中心に位置するヘルシンキ元老院です。その建物は、街の中心として、またルター派教会の主要部と考えられていました。ルター派の教会は、シンプルな建築の細部とほとんどの教会が丸天井を一つだけ有する事、そしてオリジナルのデザインがよく似ている事で知られています。しかしセントペテルブルクの当局は、建物をロシア正教の教会に似た物に建て直す様にという事を要求する命令を送りました。以上の経緯より、街のメインである大聖堂は他にはないものに仕上がりました。5つの尖塔とシンプルな造形。それは、街で最も目立つ目印でありながら、逆説的に訪問者は建物の内側からは、ドームの高さとスケールを感じないでしょう。控えめでシンプルなルター派教会と同じように。そしてこれが、才能ある建築家であるCarl Ludwig Engelの秘密の一つでもあります。

7.   1870年に、セントペテルブルクの中心地へ繋がる、初めての鉄道が敷かれました。そして、ヘルシンキは帝国のエリート達に人気のリゾートとなりました。公園に建てられた浴場では、毎年27,000人もの入浴者を迎え、ヘルシンキでお風呂に入ることが最新の流行となり、人口が加速的に増えました。ロシアの貴族は、フィンランドの人々の贅沢な装いと信じがたい支出に驚きました。この時代の間に、贅沢な新ロマン主義の建物の数々が、最も有名な通りであるアレクサンテリン通り、エスプラナーディ通りそして北部の土手に建てられました。現在もなお、西ヨーロッパ最大のロシア正教教会の一つである、生神女就寝大聖堂もこの時代に建立されました。ヘルシンキは国の中で一番大きく、豊かな街となりました。 

Elias Lönnrot

8.  それでは、フィンランド人とは誰の事なのかでしょう?彼ら独自の精神と文化とは何なのでしょうか?それでは、フィンランド人とは誰の事なのかでしょう?彼ら独自の精神と文化とは何なのでしょうか?19世紀に、Elias Lönnrot(エリアス・ルォンルート)という名の素晴らしい人物が存在しました。彼は内科学の博士論文が正しい事を主張し、人道主義の学部を卒業し、フィンランドの口承詩に深く興味を抱きました。これらの神話やフィンランドの人々の伝説を見つけて書き記すために、ルォンルートはフィンランドとカレリアの民俗学の探検旅行に乗り出しました。そして彼は、11回の旅を徒歩か小さなボートのみで行ったのです!結果として彼は、莫大な量の話や物語(それらはルーン文字や詩とも呼ばれている)を、集める事が出来ました。ルォンルートは、それらを一つすることで、有名なフィンランドの民族叙事詩・カレヴァラを創作しました。カレヴァラの神話のキャラクター達は、フィンランドの家の壁や街の通りにある珍しいモニュメントに頻繁に見受けられます。それらのキャラクター達は、ヘルシンキが都市の範囲を越えて広く知られる様になった要因である、建築物の新しいスタイルにも貢献しました。しかし、それはまた別のお話です。

Hki arc

9.  フィンランドの人々を理解するためには、気配り上手でないといけません。特に言及すべきは、どのようにして彼らが居所を組み立てるのかという点です。フィンランドの人達は、建築術に置いて独自の国家スタイルを持っています。またこれは、大きくは彼らが自分たちのアイデンティティーにどの様に気付くのかという事です。フィンランドの人々を理解するためには、気配り上手でないといけません。特に言及すべきは、どのようにして彼らが居所を組み立てるのかという点です。フィンランドの人達は、建築術に置いて独自の国家スタイルを持っています。またこれは、大きくは彼らが自分たちのアイデンティティーにどの様に気付くのかという事です。このスタイルは、フィンランドのナショナル・ロマンティシズム(ナショナル・ロマン主義、民族的・国民的ロマン主義)と呼ばれています。言葉が示すように、フィンランド国家とその歴史的な遺産は、全く新しい何かを創り出そうとする努力の中で、ロマンティックレンズの下に置かれています。19世紀に生まれたそのスタイルは、スカンジナビアや中央ヨーロッパの建築術の傾向に近いですが、フィンランドの独自性や目的を持っています。そのうえ建築物に見るロマンティシズムは、頻繁に心理学的な方法と説明されます。ー建物は、感情や豊かな創造力、そして実用的で合理的な家の性能よりもむしろ人々の夢を表現した、このスタイルで建てられている。それゆえに、可笑しくてゾッとする様なトロール、動物達、植物そしてカレヴァラに出てくる家々全体の風景に対してでさえも、確実に気を配るべきです。他にも、家々やドア、窓の開口部そして屋根の形にも、注意して見る価値があります。

10.  あなたは、フィンランドが世界で初めて女性に投票権だけでなく、代議士として選ばれる権利を与えた国であるという事を知っていましたか?あなたは、フィンランドが世界で初めて女性に投票権だけでなく、代議士として選ばれる権利を与えた国であるという事を知っていましたか?それは、ヨーロッパの歴史がフィンランドの街々や村々で徐々に進められた1907年に起こりました。その年に24才に達した男女共、上品な役人達から小作農民まで、国民全員に投票が許可されました。従って、国は本当に初めての議会の選挙を行いました。そして、選挙委員会の組織化、投票場所の準備、入念な集計手続きや最も大事な事として国民に投票権について通知する事に、1年を要しました。初めての法律には、パン屋での就業時間に関するものや、アルコールの全面禁止についても含まれていました。後者は10年後の施行となりました。なぜならその時代フィンランドはロシア帝国の一部であり、ロシア皇帝がこの法律をあまり良く思っていなかったためです。

11.  フィンランドは多様な国です。フィンランドは600年もの間スウェーデンの一部でした。そして、今日スウェーデン語はこの国の第二公用語です。だから街の至る所の、道・駅・バスの停留所やその他の物の名前が、スウェーデン語と重複していても驚かないでください。フィンランドは多様な国です。フィンランドは600年もの間スウェーデンの一部でした。そして、今日スウェーデン語はこの国の第二公用語です。だから街の至る所の、道・駅・バスの停留所やその他の物の名前が、スウェーデン語と重複していても驚かないでください。100年以上の間、国家はロシア帝国の一部でした。そして、当時の間にフィンランドの人々は自分達のアイデンティティーに気付き、ヘルシンキに首都を建て、独自の建築スタイルを創造しました。今現在ここでは、ロシアのマトリョーシカ人形の様な好奇心をそそるお土産を見つけたり、美味しいペリメニを古くからあるロシア料理のレストランで食べる事が出来ます。1917年12月6日にフィンランドは独立し、新しい時代の歴史が始まりました。

Mannerheim12.  ヘルシンキの中央通りの一つは、フィンランドの最も有名な軍事リーダーであるCarl Gustaf Mannerheim(カール・グスタフ・マンネルヘイム)と関係があります。ヘルシンキの中央通りの一つは、フィンランドの最も有名な軍事リーダーであるCarl Gustaf Mannerheim(カール・グスタフ・マンネルヘイム)と関係があります。ドイツのフィンランド駐在大使だったWipert von Blücherが、マンネルヘイムについてどう形容したかを紹介します。「マンネルヘイム陸軍元帥は背が高く、健康で筋骨たくましく、高潔で自信にあふれた立ち振る舞いで輪郭のはっきりした顔立ちである。」中央駅からも遠くない、街の中心にあるマンネルヘイムの銅像で実際に確認して頂けます。マンネルヘイム元帥は、自身の軍隊経歴をロシア軍でスタートさせました。しかし母国へ戻り、後にフィンランド軍の指揮者となりました。彼は2年間フィンランドの大統領を務めました。そして彼こそが、フィンランドの第二次世界大戦を終結させて人なのです。この事は、彼の実績の中で最も重要なものと考えられています。現在歴史家たちは、他の誰にも同じことは成し得なかったと信じています。多くのフィンランド人は、マンネルヘイムの人生に興味を持っています。彼の伝記とキャリアについては、他のどのフィンランド人の伝記よりも研究されています。300冊近くものマンネルヘイムに関する本が、フィンランドと諸外国の両方で出版されています。そして、新たな研究論文が世に出続けています。

13.   Jan Sibelius偉大な音楽の歴史では、一人のフィンランド人が知られています。そして、これがJean Sibelius(ジャン・シベリウス)です。彼の前にも後にも、フィンランド人の作曲家でシベリウス程の権威に到達できた人は存在しません。偉大な音楽の歴史では、一人のフィンランド人が知られています。そして、これがJean Sibelius(ジャン・シベリウス)です。彼の前にも後にも、フィンランド人の作曲家でシベリウス程の権威に到達できた人は存在しません。彼の写真を見ると、しかめっ面の男性が眉をひそめている様に見えるかもしれません。しかし現実には、シベリウスはウィットに富んだ愉快な男性で、本物の場を盛り上げる人気者だったのです。ここで彼の有名な名言の一つを紹介します。「私の管弦楽の作曲は、ベートーヴェンのそれよりも優れている。そして、私には彼が持っていたよりも優れたテーマを持っている。しかし、彼はワインの国に生まれた一方で、私はケフィアの国に生まれたのだ。」シベリウスは10才の時に、作曲を始めました。若くして法学部に入学しましたが数年後に退学し、シベリウスの作品を自身の教授達でさえも演奏したという音楽大学の学生になりました。シベリウスは自然を大切にしていました。彼の家には水道も電気も無かったため、作曲作業を邪魔する音は何もありませんでした。シベリウスにとって音楽は、空気の様なものではなく非常に可視的なものでした。アレクサンドル・スクリャービンの様に、シベリウスは音楽を色と連想していました。この理由のためか又はそのメロディシズムが原因か、150以上の映画で楽譜として使われました。

 


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